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東京地方裁判所 昭和63年(ワ)17135号 判決

原告

片岡陽子

右訴訟代理人弁護士

石井小夜子

被告

株式会社新評論

右代表者代表取締役

二瓶一郎

右訴訟代理人弁護士

大矢勝美

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一原告が被告に対し雇用契約上の地位を有することを確認する。

二被告は、原告に対し、金一七四万〇四六九円及びこれに対する昭和六三年一二月一七日から支払ずみまで年五分の割合による金員並びに同年一二月一日以降一か月金一五万円を毎月二五日限り支払え。

第二事案の概要

一本件紛争の経過

1  原告は、昭和六二年三月三〇日、出版業を目的とする株式会社である被告との間で雇用契約(以下「本件雇用契約」という。)を締結し、就労していた者である。原告の賃金は月額一五万円で毎月二五日支払の約束であった。

(争いがない)

2  被告は、同年一〇月一日、原告に対し、同日限りで同人との雇用関係を終了させる旨を通告したが、同人の要請に基づき同月三一日まで雇用期間を延長し、更に、同月二八日、同人の再度の要請に基づき同年一一月末日まで雇用期間を延長した。

(争いのない事実、〈書証番号略〉、証人藤原、原告本人)

3  原告は、同年一一月一四日、日本出版労働組合連合会・東京出版合同労組(以下「組合」という。)に加入し、同組合と協議のうえ、同月二四日、被告に対し、原告個人名で、①原告は被告において働き続ける意思を有しているので再考のうえ同年一二月以降も原告を雇用してほしい、②労働条件(生理休暇の保証、残業代の支払等)を改善してほしい旨を記載した要望書を提出したが、被告は、原告の雇用継続を認めなかった。

(争いのない事実、〈書証番号略〉、原告本人)

4  そこで、原告は、同年一二月三日、被告に対し、組合に加入したことを通告して要望書に関する団体交渉を求めた。そして、翌四日、原告及び組合書記次長堀根秀人と被告の二瓶一郎社長及び藤原良雄編集長との間で第一回の団体交渉がもたれ、交渉が決着するまで原告を従業員として扱い従前どおりの仕事をさせることが合意された。その後、組合側からは原告及び堀根書記次長、被告側からは藤原編集長及び武市一幸営業部長が出席して同月一四日、二一日と団体交渉が続けられ、昭和六三年一月七日に原告、被告及び組合との間で次のような合意が成立し、確認書が作成された。

一(略)

二  被告は、社員が残業命令に従って残業し、残業手当を請求したときは、労働基準法の定めに従い、これを支払う。

三ないし五(略)

六 被告は、原告に対し、これまでの残業料見合い分を支払う(支払額は原告請求残業時間数×二分の一×七五〇円とする。)。

七 今後の原告の就労については、就業規則に基づき、①就業時間は午前九時から午後六時とする②就業については昭和六二年一〇月一日以前の形態とする。原告の雇用期間は昭和六三年三月三一日までとし、同日をもって原告は退職する。なお、被告は離職票を発行する。

(争いのない事実、〈書証番号略〉、証人堀根、同藤原、同武市、原告、被告代表者各本人)

5 被告は、確認書六項に従い、原告に対し、時間外賃金として金一六万〇三一二円を支払った。

被告は、原告に対し昭和六二年の冬季賞与を支給しなかった。

(争いがない)

6 原告は、昭和六三年三月三〇日の団体交渉において、被告に対し、翌三一日に退職する意思はないと表明し、同年四月一日に出社したが、被告は原告の就労を拒絶した。なお、原告は、同年三月三一日に組合を脱退した。

(〈書証番号略〉、証人堀根、原告、被告代表者各本人)

7 以上のような経過のもとで、原告は、被告に対し、①確認書七項の退職合意(以下「本件退職合意」という。)は効力を有しない等と主張して雇用契約上の地位の確認を求めると共に、②昭和六三年四月から一一月までの賃金(一二〇万円)、昭和六二年四月から一一月までの時間外賃金(二四万〇四六九円)、昭和六二年の冬季賞与(三〇万円)の合計一七四万〇四六九円及びこれに対する訴状送達の翌日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、③昭和六三年一二月以降毎月二五日限り一か月金一五万円の賃金の支払を求めている。

二争点及びこれに関する当事者の主張

本件の中心的争点は、原告が雇用契約上の地位及び賃金請求権を有するか否かであり、具体的には、本件退職合意の効力が主として問題となる。また、原告は時間外賃金及び昭和六二年の冬季賞与の支払も求めており、これらの請求権の存否も本件の争点である。

これらの争点に関する当事者の主張の要旨は次のとおりである。

(地位確認及び賃金請求について)

1 原告

(一) 昭和六二年一〇月一日の雇用関係終了の意思表示(解雇)の無効

本件雇用契約は、期限の定めのない雇用契約であり、昭和六二年三月三〇日の採用後六か月間を試用期間としたものである。被告は、本件雇用契約が同年九月末日までの臨時雇用であると主張するが事実に反する。したがって、被告の同年一〇月一日の雇用関係終了の通告は、試用期間経過後の通常解雇であると解すべきところ、予告手続が全くされない即日解雇であって手続的に違法であるから無効である。また、被告が右通告当時解雇理由としてあげていた「子どもっぽい」「期待に答えない」というのは抽象的で意味不明であること、「試用期間中に夏休みをとった」ことについては、原告は上司の了承を得ていること、試用期間中に原告がこれらの点について被告から注意を受けたことはないことに鑑みると、右解雇は解雇権の濫用に当たり無効である。

(二) 本件退職合意の効力

(1) 錯誤による無効

原告は、法律に無知であったため、前記解雇が解雇権の濫用であり無効であることを知らず、これが有効であると誤信して、本件退職合意をしたものであるから、右合意は錯誤に当たり無効である。右確認書が法律を知らないまま作成されたものであることは、その二項で従業員が請求しない限り時間外手当を支払わないとし、六項で原告の時間外手当につき割増し分を支払わないとするなど労働基準法三七条に違反する合意をしていることからも明らかである。

(2) 強迫による取消し

被告の藤原編集長は、原告が昭和六二年一二月三日に組合加入を通告した後、原告に対し「帰って下さい。仕事はありません。編集部にいては邪魔です。立っていてください。」等と告げ、原告の同僚に対し「原告と口をきくな。」と命じる等露骨な嫌がらせを連日にわたって行い、原告に退職を強要した。原告は、このような嫌がらせのため、被告の解雇通告を受領すべき意思表示を強迫され、やむなく本件退職合意をする旨の意思表示をしたものである。そこで、原告は、同六三年四月四日、被告に対し右意思表示を取り消す旨を通知し、右通知は翌五日被告に到達したので、本件退職合意は効力を生じない。

(3) 確認書違反による本件退職合意の失効等

本件退職合意は、被告が原告を昭和六二年一〇月一日以前の就業形態に戻す債務を履行すること(従前の編集の仕事をさせること、他の社員と差別をしないこと)を条件あるいは引換えとしており、右債務が履行されなければ効力を失うものとされていた。ところが、被告は、原告に従前のような編集の仕事をさせずに倉庫で返品整理の仕事をさせたり、残業をさせず、冬季賞与を支給せず、行事に参加させないという差別を行ったりして右債務を履行しなかった。したがって本件退職合意は、条件が成就していないか引換えの債務が履行されていないから効力を生じない。仮にそうでないとしても、原告は、本件退職合意を債務不履行により解除できると解すべきところ、原告は昭和六三年四月四日、被告に対し債務不履行により右合意を解除する旨の通知をし、右通知は同月五日被告に到達したので、本件退職合意は効力を生じない。少なくとも、右債務の履行をしていない被告は、信義則上、本件退職合意に基づく雇用期限到来を主張して原告に対し退職を求めることは許されない。

2 被告

(一) 原告の主張(一)について

本件雇用契約は、昭和六二年九月末日までの期間の定めのある雇用契約であり、被告は、同年一〇月一日、原告に対し雇用期間満了により雇用関係を終了させ、再雇用をしない旨を告げたものである。

(二) 原告の主張(二)について

原告の雇用問題については、当事者及び組合との間で十分な交渉が行われた結果、原告が昭和六三年三月三一日に退職することで合意ずみである。原告は、解雇が有効であると誤信して本件退職合意をしたものであるとして錯誤による無効を主張するが、原告は被告との交渉において、解雇の無効を主張していたものであるから、この点につき本件退職合意を無効とするような錯誤はなかったというべきである。また、確認書の記載内容及び交渉の経緯からみて、本件退職合意が強迫によりされたものでないことは明白である。さらに、確認書七項の文言上から、就業を昭和六二年一〇月以前の形態とすることが本件退職合意に基づく退職の条件あるいは引換えとなっていると読みとることはできず、この点につき口頭の合意がされた事実もない。また、原告に返品整理の仕事をさせたことは確認書違反とはならず、仮になるとしても原告の抗議により速やかに是正されたものであるから解除原因にはならない。

(時間外賃金の請求について)

1 原告

(一) 原告は、被告において就労中、次のとおり合計427.5時間の時間外労働を行った。

昭和六二年四月 二七時間

同    五月 六四時間

同    六月 六八時間

同    七月 43.5時間

同    八月 四六時間

同    九月 六七時間

同    一〇月 38.5時間

同    一一月 73.5時間

原告の基本時間給は七五〇円であるから、被告は原告に対し労働基準法三七条に基づき割増しをした時間外賃金合計四〇万〇七八一円を支払うべきところ、被告は右時間外労働に対し一六万〇三一二円しか支払っておらず、二四万〇四六九円が未払である。

(二) 右一六万〇三一二円は、確認書の合意に基づき上記期間中の時間外賃金として支払われたものであるが、右確認書における時間外賃金に関する合意(二、六項)は、当事者が法律に無知であったため、請求があった場合にのみ時間外賃金を支払うものとし、二割五分の割増賃金を含めず、単純に時間給に時間数をかけることにより支払金額を算出したものであるから、強行法規である労働基準法三七条に違反し無効である。したがって、原告の時間外賃金については、同法一三条により同法三七条が適用されるから、被告は原告に対し、未払時間外賃金として二四万〇四六九円を支払う義務がある。

2 被告

被告は、原告との間で、右期間中の時間外賃金につき「原告主張の残業時間数×二分の一×七五〇円」の計算で算出した金額を支払うとの合意をし、これに基づき一六万〇三一二円全額を支払ずみである。原告は右合意が無効であると主張するが、本件においては、当事者間で残業の有無及び残業時間数につき争いがあり、団体交渉の結果、右計算式で算出した額を支払うことを合意したもので、実際にされた残業時間数の二分の一しか支払わないとか二割五分の割増分を支払わないといった合意をしたものではないから、右合意は労働基準法三七条に違反せず有効である。

(昭和六二年の冬季賞与について)

1 原告

原告と同期に入社し夏期賞与につき原告と同額の支払を受けた者は冬季賞与として給与の二か月分の金額を支給された。確認書七項は、原告の就業については昭和六二年一〇月一日以前の形態とするとしており(この点は既に同年一二月四日に合意されていた。)、これには、原告に対し同年の冬季賞与を支給するとの趣旨が含まれている。また、原告以外の被告の従業員は全員が冬季賞与を支給されており、このような場合、賞与支給の合意がなくとも原告に冬季賞与が支給されるべきである。したがって、被告は、原告に対し同人と同期入社の従業員と同額の冬季賞与三〇万円を支払う義務がある。

2 被告

被告は、原告に対し昭和六二年の冬季賞与を支給する約束をしたことはない。確認書七項は、原告に対し冬季賞与の支給を約束したものではない。

第三争点に対する判断

一地位確認及び賃金請求について

1  当事間に争いのない事実及び証拠(〈書証番号略〉、証人堀根、同藤原、同武市、原告、被告代表者各本人)によって認められる事実は次のとおりである。

(一) 原告は、被告に入社した後約一か月間営業部で勤務した後、編集部に異動し、昭和六二年一一月三〇日まで主任の指示のもとに本の校正、索引作成、図版の収集・選択・整理、原稿整理、献本発送等の仕事をしていた。

(二) 同年一〇月二日から一一月三〇日までの原被告間の雇用関係については雇用期間延長の形がとられていたが、原告は、右延長措置が同人の雇用契約上の地位を被告に認めさせるための便法にすぎないと考えており、右期間経過により退職する意思はなかった。原告は、被告から雇用の継続を拒絶された同年一二月以降も就労の意思を有しており、同月一日は被告の指示により、翌二日は私用のためいずれも出勤しなかったが、二日については退職を認めたと被告に主張されるのを防ぐため、予め休暇届を提出しておいた。そして、原告が同月三日に出勤したところ、藤原編集長は、原告に対し、同人は一一月三〇日に退職したので仕事がないから帰るよう何度も告げ、原告を座っていた机から引き離そうとし、原告がこれを拒否すると、営業部長と向い合わせに座らせると言い、他の社員に「原告と口をきくな」と命じた。結局、原告は、同日は帰宅を拒否し一日中机に座っていた。

(三) 同年一二月四日に、原告及び堀根書記次長と被告との間で団体交渉が行われ、その際、交渉決着まで原告を従業員として扱い従前どおりの仕事をさせることが合意された。これに基づき原告は同月二五日まで編集部で本の編集業務に従事したが、午後六時に帰宅を命ぜられ、朝のミーティングにも出席しないよう指示されたので、被告に対し抗議した。また、原告は、従前、主任から仕事の指示を受けていたが、右合意後は藤原編集長から直接指示を受けることになった。また、原告は、被告から同月二三日開催の著者忘年会に参加しないよう指示されたため、これに抗議した。

(四) 同年一二月一四日、二一日の団体交渉では主として原告の要求した労働条件の改善についての話合いが行われ、原告の雇用問題については進展がみられなかった。そして、次回交渉期日である翌六三年一月七日に原告の雇用問題を含めて交渉を決着させることが合意された。

原告は、昭和六二年の終業日の前日である同年一二月二四日、藤原編集長から来年は出社せず翌六三年一月七日の交渉にだけ出席するよう告げられたが、前記(三)の約束に違反すると抗議し出社の意思を表明した。原告から右事実の連絡を受けた堀根書記次長も翌二五日に被告に抗議した。更に原告は、同日藤原編集長から再度、同人の勤務が同日限りである旨告げられるとともに同日の社内忘年会にも出席しないように言われたので、これに抗議し来年も出社すると述べた。

原告は、昭和六三年一月五日に出社したが、藤原編集長から仕事はないので帰るよう言われて就労を拒絶され、編集部の部屋に入れなかったので、同日は仕事を与えられないまま営業部の椅子に腰掛けて自主的に読み書きをして過ごし、翌六日に出社した際も同様の状況であった。なお、原告の机は同月五日に取り払われた。

(五) 原告及び堀根書記次長は、同年一月七日の団体交渉の冒頭で被告の右(四)の各措置が前記(三)の約束違反であり、これについて謝罪し原告の机を元に戻すことを約束しない限り交渉に応じないと主張した。被告は、協議の結果、原告に謝罪するとともに机を元に戻すことを約束し、これに基づき確認書の冒頭に「労使の交渉中に約束した就労保障を破ったことについて、交渉再開に当り、就労保障をするとともにおわびします。」と記載した。これに引き続いて原告の雇用契約上の地位についての交渉が行われ、被告側から、同日限り、同月二〇日限り、同年二月二〇日限りといった退職時期の提案や退職までは自宅勤務とするといった提案があったが、原告はこれらの提案をいずれも拒絶し、結局、原告が同年三月三一日に退職すること、原告の就業については昭和六二年一〇月一日以前の形態とすること等の合意が成立し、その旨が確認書七項に記載された。右合意の際「就業については昭和六二年一〇月一日以前の形態とする」との内容については、自宅勤務ではなく会社で従前やっていた編集の仕事をするということ以外には当事者間でその具体的内容についての話合いはなく、このことが守られなければ同月三一日に退職するとの合意が効力を失うというような話はなかった。被告は、右交渉の席上で原告に対し、同年三月三一日付けの退職届を予め提出するよう求めたが、原告はこれを拒否した。

(六) 原告は、同年一月七日以降、編集の仕事として本の校正等をしたが、担当した本の冊数は昭和六二年一〇月一日以前に担当した冊数と比較するとわずかであり、昭和六三年二月二三日までの間、合計一七日間余りは倉庫で返品整理(返品された本のカバーの付け替え等)の仕事に従事した。原告及び堀根書記次長は、同年二月二三日の団体交渉において原告の返品整理の仕事が長期にわたっており編集の仕事をさせないと確認書違反となると被告に抗議した。原告は、この後同年三月三一日までの間、翌二四日から二六日まで及び三月一一日は返品整理の仕事を行ったが、その他の日は本の校正、索引作成、原稿清書等の編集作業をした。原告に対するこれらの仕事の指示は藤原編集長が行った。勤務時間については、原告は、午後六時になると帰宅を命ぜられたのでこれに従っていた。

原告は、同年二月三日の被告従業員のバレーボールの会に出席すべきかどうか藤原編集長に相談したところ、同編集長から出なくてもよいと言われたため、同会に出席しなかった。また、原告は、同年三月二四日に行われた被告の就業規則に関する従業員の話合いの開催の通知を受けなかったため、右話合いに出席できなかった。

原告及び堀根書記次長は、同年三月一日、一六日、二二日、三〇日に主として就業規則の改定問題について被告と団体交渉をしたが、同月三〇日に原告が四月以降の就労意思を表明するまで、原告が被告に対し、原告の仕事の内容等が確認書に違反するとか本件退職合意が無効であると述べたことはなかった。

2  錯誤無効の主張について

右認定事実によれば、原告が退職したかどうかについて原被告間に争いがあり、交渉の結果、右争いを止めるため、被告が原告の雇用契約上の地位を認めるとともに、原告が昭和六三年三月三一日限り退職することとしたものであるから、本件退職合意は民法上の和解契約に当たる。そして和解契約において止めることを約した争いの対象となった事項については、この点につき錯誤があっても、民法六九六条により当事者はその無効を主張しえないと解すべきところ、本件においては、まさに原告の雇用契約上の地位の存否自体が争いの対象となっていたのであるから、仮に原告が右和解契約の当時法的知識がなかったため雇用契約上の地位がないと信じており、この点につき錯誤があったとしても、もはや原告はこれを理由として右和解契約の無効を主張しえないというべきである。したがって錯誤無効の主張を採用することはできない。

3  強迫取消しの主張について

1で認定した被告の1(二)ないし(四)記載の各措置に対する原告の対応及び本件退職合意をした昭和六三年一月七日の交渉の経緯、とりわけ交渉の冒頭で被告に1(四)の措置をとったことを謝罪させると共に確認書にその旨を明記させていること、右交渉には組合書記次長が同席していたこと等の事実に照らすと、原告が被告の1(二)ないし(四)記載の各措置に畏怖して本件退職合意をしたと認めることはできない。したがって強迫による取消しの主張は採用できない。

4  確認書違反による本件退職合意の失効等の主張について

原告は、同人の就業を昭和六二年一〇月一日以前の形態とする債務の履行と原告の退職とは条件ないし引換えの関係にあり、右債務が履行されなければ本件退職合意は効力を失うと主張するが、確認書の文言自体からはこのような関係を読み取ることはできない。この点につき原告は、確認書締結の際に右債務が履行されなければ本件退職合意の効力が発生しないことが口頭で確認されたと供述するが、確認書締結の際にこのようなことが話し合われたことがないことは前記認定のとおりであるから、右原告の供述はこれに照らし採用することができず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。また、そもそも被告に右債務の不履行があったと認めることができないことは後記説示のとおりである。したがって右主張は採用できない。

次に、債務不履行による解除の主張についてみるに、前記認定事実によれば、原告の就業を昭和六二年一〇月一日以前の形態とするとの債務の内容は原告に編集の仕事をさせることであると解するのが相当である。原告は、右条項にはこのほか他の従業員と差別的取扱いをしないということも含まれていると主張するが、確認書締結の際にこの点について具体的に話し合われたことがなかったことは前記認定のとおりであるから、このような趣旨まで含むと解することはできない。そこで、被告に右債務の不履行があったといえるかどうかをみるに、原告は、倉庫での返品整理の仕事をさせたことが債務不履行に該当すると主張する。しかしながら、右就業形態に関する合意が、被告が原告に対し編集以外の業務を一切命じることができないとの趣旨まで含むと解することはできないこと、返品整理の仕事は被告の業務上必要な仕事であり原告自身も右仕事をすること自体が嫌だと考えていたわけではないこと(〈書証番号略〉)、前記1で認定したとおり、原告は昭和六三年二月二三日に返品整理の仕事が長期にわたっていることを抗議しているが、その後は返品整理の仕事をほとんどさせられなくなり、結局同年一月七日から三月三一日までの約三か月弱の期間中、原告が返品整理の仕事をしたのは約二一日間で、その余の期間は編集の仕事をしており全体としてみると編集の仕事の割合の方が多いこと、右抗議の後同年三月三〇日に原告が四月以降の就労意思を表明するまでの間に原告が被告に対し仕事内容が確認書に違反する旨を述べたことはなかったこと等に照らすと、返品整理の仕事をさせたことが右条項の趣旨に違反し債務不履行となると解することはできない。原告は確認書締結後に従事した編集の仕事が従前の編集の仕事と異なるとも主張するが、この点につき債務不履行となるような仕事内容の差異があったと認めるに足りる証拠はない。したがって債務不履行による解除の主張も採用することができない。

さらに、原告は、被告に債務不履行があることを前提として被告が本件退職合意による原告の退職を主張することは信義則に違反すると主張するが、被告に債務不履行が認められないことは右説示のとおりであり、他に被告に信義則違反となる事実があったと認めるに足りる証拠はないから、右主張も採用できない。

5  以上によれば、原告と被告との雇用関係は本件退職合意に基づき昭和六三年三月三一日に終了したというべきであるから、原告の地位確認及び賃金請求は理由がない。

二時間外賃金の請求について

当事者に争いのない事実及び証拠(〈書証番号略〉、証人堀根、同藤原、原告、被告代表者各本人)によれば、原告は昭和六二年一一月二四日提出の要望書中で、同年四月から一一月までの間に同人作成のグラフに記載した時間数の時間外労働をしたとして被告に対し時間外賃金の支払を請求したこと、被告は原告の時間外労働の存在を争ったこと、交渉の結果、昭和六三年一月七日、「原告請求残業時間数×二分の一×七五〇円」の計算で算出した金額を時間外賃金として支払うことが合意され(確認書六項)、これに基づき原告に対し一六万〇三一二円が支払われたこと、請求残業時間数の二分の一を計算の基礎とすることに原告が同意したのは時間数を客観的に証明する証拠がないとの判断によるものであることが認められる。原告は、被告の二瓶社長が原告作成の前記グラフに基づき原告の時間外労働の時間数を算出してこれを認めた旨を供述するが、被告代表者本人の供述によれば、二瓶社長は現実の時間外労働の時間数を認めたものではなく、合意にあたって計算の基礎となる数字として右時間数を算出したものにすぎないことが認められるから、右原告の供述を採用することはできない。

右事実によれば、原告の時間外賃金請求権の有無につき当事者間に争いがあったが、交渉の結果、右争いを止めて確認書六項の金額で時間外賃金請求権を確定する民法上の和解契約が締結されたものであるということができるから、仮に原告がその主張する時間数の時間外労働をしていたとしても、右和解契約で確定された金額を超える部分の時間外賃金請求権は民法六九六条により消滅したものである。原告は、右和解契約が二割五分の割増賃金を含めずに支払金額を算出したもので労働基準法三七条に違反し無効であると主張するが、右計算が現実の時間外労働時間数を前提としたものではないことは右に認定したとおりであるから、その際に割増し計算をしなかったことは同条に違反しない。また、原告は、確認書二項が請求しない限り時間外賃金を支払わないとしているのは、請求の有無にかかわらず請求権を認めた同法三七条に違反し無効であり、このことにより確認書六項の右和解契約も無効となるとも主張するが、第二項と第六項は別個の合意であって、その効力はそれぞれ独立に判断されるべきものであり、仮に二項の合意の趣旨が原告主張のとおりであり無効であるとしても、右和解契約の効力には影響を及ぼさないと解するのが相当である。

したがって、原告の時間外賃金請求権は右和解契約の成立及びその履行によって消滅したものというべきである。

三賞与請求について

原告は、昭和六二年一二月四日の原告を従業員として扱い従前どおりの仕事をさせる旨の合意及び確認書七項の「就業については昭和六二年一〇月一日以前の形態とする」との合意中に、昭和六二年の冬季賞与を支給するとの趣旨が含まれていると主張するが、証人堀根及び同藤原の各証言によれば、右各合意の際に当事者間でその具体的内容についての確認は行われなかったこと、確認書締結までの交渉の過程で冬季賞与の支給について話題になったことがないことが認められ、これらの事実に照らすと右各合意中に賞与支給の合意が含まれていると認めることはできない。原告は昭和六二年の冬季賞与が原告の同期入社者を含む被告の従業員全員に支払われているので支給の合意がなくとも原告にも同様に賞与が支給されるべきであると主張するが、仮にこのような事実が認められたとしても、そのことのみから直ちに原告の具体的な賞与請求権の発生を認めることはできず、他に原告が賞与請求権を有すると認めるに足りる事実についての主張、立証はない。したがって、原告の冬季賞与の請求は理由がない。

(裁判官阿部政幸)

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